いつか娘ちゃんが大きくなった時に
このブログを読み返すのかなぁとか考えました。

 

 

「親の書いたブログ」かぁ・・・

うーん・・・

自分なら一回は読むかもなぁ。

熱心な読者にはならないと思うけど。

なんか恥ずかしいし。

 

 

てなわけで

 

娘ちゃんが大きくなって
このブログを読んでもらえることがあったなら
「伝えておきたいこと」を

書いておこうかな。

 

「息子くんに伝えたいこと」は

 

また別で。

 

 

 

 

娘ちゃんへ。

 

君は今3歳で

お話も上手になってきたね。

ご飯も上手に食べられるようになってきた。

ご飯中に遊んでよく怒られてるけど。

 

 

最近はママの真似をしてパパを叱るね。

電気の消し忘れを指摘するのとかほんともう超そっくり。

「親の言うようには育たないが親の背中を見て育つ」は本当だなと感じてるよ。

 

「親のように育つ」んじゃなくて
「親を見て、自分で判断して、育つ」感じする。

だっておれみたいに電気消し忘れあんまりしないもんね。

 

まぁいいや。

 

君はパパと二人きりになった時には
いつもママにダメって言われることをお願いしてくるね。

「お菓子食べよう?」だったり
「おもちゃ買おう?」だったり。

 

パパはすぐ買っちゃうね。
かわいくてね。

ママに後で怒られるけどね。

 

でも「ママのいないところでお願いする」っていうズルさ
嫌いじゃないよ。

目的達成のために手段を選ばない感じ。

まぁ、善悪なんて誰かに決めさせるもんじゃなくて
自分で決めたらいいよ。

と、パパは思う。

 

 

パパの経験から
「こうやったら君の望む結果は出ないんじゃないかな」って時は教えるけどさ。

 

「ニコニコしてるママが好きなら
ご飯前にお菓子は食べないほうがいいよ」とかね。

 

まぁ、「自分が今何を欲してるのか」っていう
「自分の欲望に自分が気づいてる」ってのは大事だと思ってるから

娘ちゃんが「お菓子食べたい」って時に
「お菓子を欲しがるなんてダメなこと」とは言わないよ。

 

「ご飯食べられなくなるし、ご飯食べてくれないと
作ったママはめっちゃ悲しむし怒るけど
それでもいい?」って聞くさ。

 

 

君は即答気味に「食べれるし!」って言うけどね。

 

 

だいたいご飯食べれてないけどね。

まぁそういうのも「経験してわかること」さね。

 

 

 

そう。

「経験してわかること」がたくさんあるんだよ。

 

沖縄では
「高校行って大学行って
給料と休みが安定してるところに就職できて
結婚して家庭持てれば幸せ」

みたいな風潮あるけどさ。

 

例えばパパが今死んだとして。

 

パパは大学出て
公的機関勤めて給料と休み安定してたけど

「あー。おれは高校行って大学行って
給料と休み安定してるところに就職できて幸せだったな」
とは思わないよ。

 

 

それはあくまで「手段」だから。

 

「娘ちゃんや息子くんや
嫁様と過ごせて幸せだったな」は思うけどさ。

「友達と笑ったの、楽しかったな」とかさ。

そういうのは思うと思う。

 

あとは

「あの時ありがとうっていってもらえたな」とか

「誰かの役に立てたな」みたいな。

貢献できたなみたいな時は

「あれは幸せだったなぁ」と思うと思うよ。

 

 

なんていうかさ。

娘ちゃんも

進路とか就職とかで

迷うかもしれないけどさ。

「ひとつの手段」が選べなかったらまた
「別の手段」を選べばいいさ。

 

 

今は「一つの手段」がまるで「目的」のようになってしまって
(「大学合格」とか。)

それがダメなら人生終わりみたいに考えてる人いるけど

それはあくまで「手段」だよ。

「手段」は、死ぬ時に「満足感」を与えてはくれないよ。

きっと。

 

 

死んだことないからわかんないけどさ。

 

「欲しいもの」は「何のために欲しいのか」ってことさ。

「手段のその先にあるもの」が君を幸せにすることだよ。

 

 

 

高校行くのは何のため?
大学行くのは何のため?

給料安定してて
休みもあった時に

 

 

 

君は、何がしたい?

 

 

 

 

「その時にすること」が君を幸せにすることさ。

「寝たい」でもいいし

「だらだらしたい」でもいい。

 

 

 

別に人から見て立派じゃなくてもいいのさ。

 

 

要は

「本当に自分が欲しいものかどうか」ってことさ。

 

そこがズレてると
「手段」ばっかり手に入れて
「本当に欲しいものがわからない」なんてことになる

 

 

だから

君の「欲望のセンサー」を壊さないように気をつけるよ。パパは。

 

「これを欲しがるなんていけないことだ」と思わないようにね。

 

 

「欲しがる」ってのは幸せのために必要なものだよ。

 

「無欲がいい」って人は「無欲」を欲しがってる。

 

 

他人から「そんなのどうせ無理」とか
「無駄だ」とか「そんなんしてどーするの?」とか
「やらないほうがいい」とか

言われ過ぎちゃうと

 

 

「自分なんて」とか
「どうせ無理なんだ」とか思っちゃって

自分の「欲望センサー」が錆び付いちゃうからね。

 

 

そしたら不安になっちゃって

「不安を埋めるもの」を「欲しがる」(目的にしてしまう)。

 

不安ていつまでも無くならないのに。

 

それよりは

「欲しいもの」を
高度な「欲望センサー」でキャッチして
「手段をいろいろ試していく」ってのが
健全な気がする。

 

 

まぁパパもまだまだ経験が足りないけどね。

日々勉強中ですよ。

 

まぁ

今日まで生きてきた中ではそう感じてる。ってこと。

 

 

だから
パパは「お菓子欲しい」とか
「おもちゃ買って」とか言われた時に

 

「お菓子食べたらダメ」
「おもちゃ買ったらダメ」ではなく

 

「お菓子食べたらご飯食べられなくなってママが悲しむし
怒るから嫌だ」
「お片づけしないまんま新しいの買うとまた散らかっちゃって
ママが怒るから嫌だ」って言ってるんだ。

 

 

 

 

結局「ちょっとだけだよ?」って買っちゃうけどね。

 

ママが怒るのも嫌だけど
娘ちゃんが喜ぶ顔も見たいもんでね。

 

お菓子食べて
ご飯食べれなくて怒られるし

おもちゃ散らかして
怒られるんだけどね。

 

 

まぁ経験さね。

 

でも最近は

「おもちゃ買って欲しいから片付ける」し
「お菓子食べたいから、ちゃんとご飯食べるようになってるもんね。

 

成長してるよ。

 

すごいさ。

 

 

そしてどうやらママに似ててしっかり者オーラあるから
まぁ、なんだかんだ大丈夫でしょう。

 

陽気で明るいしね。

笑ってりゃいいことあるよ。

オーライオーライ。だ。

疲れたら休め。

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不安は無くなることはないよ。

生きてる限り。

でも「光」は見つけられるよ。

「自分の欲望センサー」さえ壊さなければ。

 

 

だからちゃんと

「欲しいものは欲しい」と思うんだよ。

実際に手に入れることはできなくても。

関係ないよ。

 

 

 

「欲しいと思った心」を大切にね。

 

そうしたらきっと「光」は見つけられるから。

 

 

なんにも「光」が見えない時

目を瞑ってしまっているかもしれない。

 

「見ちゃいけない」なんて思っちゃってるかもしれない。

 

 

目を向けてみて。

「自分は本当は何がしたいのか」にさ。

 

そうしたらきっと「光」は見つけられるから。

 

 

光を知るには闇を知るのもいいよ。

「何が欲しいか」がわからない場合
「何を絶対に犠牲にしたくないか」を考えたっていい。

 

うん。

 

「光」は絶対にある。

 

 

今は見えなくても。

 

 

先のない行き止まりのトンネルを進んでるとしか思えなくても。

 

 

 

 

 

「自分が何を欲してるか」

「自分が何を犠牲にしたくないか」が分かってれば

 

 

「光」は必ずある。

 

 

 

 

ロックンロールが鳴ってるよ。

 

 

 

 

今日のオススメ本
えんとつ町のプペル

「信じぬくんだ、たとえひとりになっても」

大人になって読むと、また違う感じ方をすると思うんだ。

大人になったら、また、読んでみてよ。

絵本では異例の大ヒットなんだよ。えんとつ町のプペル。