さて。
私には子どもが二人いまして。
息子ちゃんと
娘ちゃん。
「幸せになって欲しい」と思います。
「何が幸せか」は本人たちが決める事なので
強制はしないつもりです。
ただ、
「幸せにたどり着くため」に
「伝わったらいいな」と思ってることと
「こうあってくれればいいな」と
思ってることはあります。
それは
「選択肢を選び続けるチカラ」を持って欲しい。と、思ってます。
「何が幸せか」は本人たちしか
わからないことです。
それは
「自分で決めたなら」それでいいと思います。
(私には「不幸」にしか見えなくても。)
大事なのは「自分で決めた」と思えるかどうかだと
思ってます。
「他人に決められた幸せ」なんて
本当の意味での「満ち足りた気分」は味わえないと
思ってます。
(まぁそれも「本人たちが決める事」ですが。)
まぁとにかく。
子どもたちが「何に本当に幸せを感じるか」は
私にはわかりません。
でも1つわかる事があります。
「選ばないと、手に入らない」という事。です。
「幸せ」を「美味しさ」だとしましょう。
「何か」を食べないと、「美味しさ」は味わえません。
「どんな味を美味しいと感じるか」は人それぞれです。
「甘いの」が好きな人もいれば
「酸味があるの」を好きな人もいるでしょうし。
「甘いの」が食べたいのに
「からいもの」を口に入れてしまったら
それは「不幸」かも知れません。
それでも、「選んで食べる」をしないと
「美味しい」にはたどり着けません。
絶対に。
時には選択肢が「からい」だけかも知れない。
どれ食べても「不幸に感じる」かも知れない。
それでも、選んで食べないと
「次の選択肢」は出てこない。
待ってて変わる事もあるかも知れないけど
自分から「選択肢を選ぶ」事をし続けた方が
「自分が美味しいと感じるもの」にありつける可能性は高くなる。
そして「甘いの」が欲しい時に
「からいもの」を食べると
「つらい」かもしれない。
けど
「からい味」が分かる。
分かれば、データとして「選ぶ基準」になるんです。
「もう絶対食べない」のか
「この程度までなら大丈夫」なのか。
それは「選択肢を選ぶチカラ」になります。
一番サイアクなのは
「選ばない」こと。
「本当は甘いのが欲しいけど
からいのに当たったらイヤだから食べない」って行動。
それでは「幸せ」にはなれない。
選べば、死なない限り、「次」
があります。
大事なのは、選ぶこと。です。
その為には、「失敗をたくさんする」。
失敗をするとデータが増えるので
選びやすくなります。
というか
失敗をしないと選びにくくなります。
「失敗をしたから分かる事」があります。
失敗は、死なない限り、「選択肢を選ぶチカラ」になります。
失敗をしないまんまで
「失敗はダメな事」だとインプットされ続けると
「選ぶチカラ」は無くなっていきます。
周りの「基準」に依存しないと
選べなくなっていきます。
私はそうでした。
自分の、基準で選ぶことは、なかった。
大学卒業間近まで。
だから
「失敗から遠ざける」は親としてしたくありません。
葛藤はもちろんありますが。
変な話、「死を意識してほしい」とすら思います。
実際にケガしてほしいとか
病気してほしいとかではなく。
私は、「死ぬ時」を意識したとき
「このままでは死ねないなー」と思う事があります。
「死ぬ」のを意識することで
「生きること」の充実感を高める行動を
選択するチカラにします。
もちろん子どもたちには「何事もなく」とは強く願います。
が
困難の無い人生は、ありません。
「困難に出会わないように」ではなく
「困難に出会った時にどうするか」です。
親として、子どもたちの無事を祈ってます。
だけど
「困難を乗り越えるチカラ」は絶対に必要で
それには「失敗を遠ざける」ではなく
むしろ「失敗をすること」を経験することは
大事だと思ってます。
「失敗を経験すること」は
「周りに依存することなく選択肢を選び続けるチカラ」になります。
「依存してしまう人」は
「失敗をしてない」んだと思います。
失敗をたくさんすると
「自分の軸」が出来ていきます。
「自分の軸を持つ人」は
私には魅力的にうつりますし。
「自分の軸」を持っていれば
「選択肢を選ぶ基準」もあるので
「選択肢を選び続けるチカラ」になります。
失敗してない人は
「選択肢を選んでない」んだと思います。
そういう人は、私には魅力的にうつりません。
「自分の幸せが何か」を知るには
「選んで食べる」を続ける事が大事です。
「誰かの基準」に依存して生きて欲しくない。
「依存すること」が
「望む幸せ」なら
「私は誰かの基準に依存する」って
「自分でちゃんと決めて」ほしい。
「大学に行けば選択肢増える。」
そう言われてきました。私は。
確かに
「大学に行くとなれない職業」はないです。
「大学に行かないとなれない職業」はあります。
でも
大学に行く時や、卒業するときまでに
「自分は何を基準として、選択肢を選ぶのか」を
決めておかないと
選択肢は逆に狭まります。
「せっかく大学にいったんだから
公務員や銀行や大企業に」って
「周りがいう選択肢の基準」でしか
選べなくなります。
「自分で決めて選んだ失敗」を、してないと。
私はそうでした。
「失敗をしないように」勉強していましたので。
就活をするときの基準は
「給料・休み・仕事内容はキツくないか」という
「誰かの基準」だけで選ぶしかなくなってました。
失敗をしてなかったから。
就活はゼンメツしました。
幸いにも失敗をして「追い込まれた」ことで
「自分は何を幸せと感じるか」で選んで
遊べる本屋ヴィレッジヴァンガードに
就職しました。
そこはどんな学歴でも「バイトから」だったので
大学卒業したのに「公務員や大企業」ではなく
「バイト」でした。
とても楽しかったし
今の肥やしになってると思う。
就活がゼンメツせずに
失敗をせずに
あのままどこかに受かってしまってたら
今も「誰かの基準」で
選択肢を自分で選べずに
生きていたと思います。
それは、絶対にイヤです。
その選択肢は、選びたくない。
あのとき、失敗をしたから、いま
「自分の基準」があります。
周りには
「大学にまで行ってバイトか。恥ずかしい」とか
言われたりしました。
で少しヘコんだりもしましたが、パワーにもなりました。
「やってやるよ!みとけよ!」ってパワー。
誰かの基準で選んでたら
「パワーは出なかった」と思います。
生きるチカラは減っていったと思う。
今は「自分の基準」で色々選んでます。
失敗をたくさんしてます。
怒られることもあります。
大好きな人に迷惑をかけて
ヘコんだりもします。
でも
「選択肢を選ぶ基準」と
「選び続けるチカラ」は
増えていってます。
「幸せ」もたくさん感じるし
食うにも困らなくなってきています。
失敗は、したほうがいい。
これからも、すると思う。
「親の言う事」ではなく
「どんな親の背中を見たか」で
子どもたちには伝わると思うから。
サイアクなのは
「選ばない」こと。
選ばないと、前に進めない。
でも
「選ぶ基準」がないと選べない。
「選ぶ基準」は、失敗しないと、出来ない。
「死ぬこと」を意識しないと
「生の存在感」が薄くなってしまう。
「失敗」から遠ざけるってことは
「幸せ」からも遠ざけるってこと。
引きこもるのもいい。
「自分で、引きこもる事を、選んだ」って
自分で決めたって意識があるならいい。
「他人の基準で生きていく」って
「自分で決めた」なら、それでもいい。
「失敗をしない」と
失敗がずうっと、こわいまんま。
選べなくなる。
失敗の前で立ちすくんでしまう。
「失敗が選択肢のなかにある」と思うだけで
選択肢を選ばなくなる。
それは、サイアク。
幸せに、たどり着けません。
失敗を、してみよう。
経験しないと、わからないまんま。
わからないと、過度に怖がったり
依存したりする。
童貞が
「セックスさえ出来れば人生変わる」と思ってるように「存在」に依存してしまう。
過度に怖がったり、憧れたりしてしまう。
大事なのは
「わからないこと」にツッコむ「勇気」。
新しい靴を、履く勇気。
だから、ロックンロールは、鳴っている。
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